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「てんでんこ」の教え(西岡 毅)

 私の修習同期に、岩手県釜石市出身の弁護士がいる。平成23年3月11日の東日本大震災での釜石市の死者・行方不明者数は、1,056名にものぼる(平成24年1月5日現在)。私は、震災の現場を知るため、平成23年の年末に彼の釜石への帰省に同行させてもらい、彼と彼の家族に被災地を案内してもらった。

 まずは彼と連れ立って、釜石の市街地を自分の足で歩いた。道路に倒れたままの消火栓。土砂に埋もれ、つぶれた車。瓦礫が山積みにされたままの家屋。ニュースで似たような光景を何度も見ただろうに、実際に目の当たりにするとその静かな迫力に圧倒された。

 廃墟となった家屋の瓦礫の中に、壊れた掛け時計を見つけた。津波が町を襲った3時20分で止まっていた。

 ところどころで、壊れかけた建物に結び付けられた赤い旗を目にする。「あの旗は、撤去可の印。」と彼は教えてくれた。赤ペンキで、「○」や「×」が書かれた建物もいたる所で目にする。「あの○や×の印は、生存者の有無の確認完了を伝えるための印と聞いた。」と彼は言う。戦場のような光景を前に、ここで少しでも生存者がいてくれればと願った。

 津波避難場所と指定されていた高台にも案内してもらった。彼は、震災当日にその高台から撮影された津波の時の映像を、自身のスマートフォンに多数保存していた。「この映像にある建物は、あの建物。」と説明してくれた。悲鳴と波の轟音の中、津波が町を飲み込む様子が生々しかった。

 釜石の市街地から自動車で移動し、周辺の集落にも足を伸ばした。

 「ここは、以前、広い砂浜が続いていた所なんだけど・・・」。この震災で海岸線が変化したことは知っていたが、ほとんど砂浜がなくなってしまった海岸に実際に立って海を眺めると、自然の脅威を改めて感じた。

 町が全く消失している集落も複数あった。ニュースでも聞いたことがない地名だった。そんな集落が、海岸線沿いに点在していた。

 彼は高校生のときまで釜石市で暮らしてきた。この震災で同級生が一人亡くなったという。故郷の変わり果てた姿を無言で眺める彼の姿を見ると、彼の限りない喪失感を感じた。自分の故郷がこのような変わり果てた姿になったら耐えられないだろうと思う。

 彼の父親にも話を聞いた。「地震の前日に一緒に飲んでいた人が亡くなったよ」。あまりに淡々とした話しぶりに、死が日常になってしまったこの状況と、そうして悲しみを乗り越えていく静かな強さを感じた。

 震災直後の映像と比べると、これでも少しは町の状況が戻ったことが分かる。しかし、震災から10か月もたった今も尚、震災の爪痕は色濃く残っている。その中で、残された人々が着実に震災前の日々を取り戻そうと懸命な努力を続けている。彼らのために法律家ができることは一体何だろうか。

 東京へ帰る際に、彼の母親からたくさんの食べ物を渡された。「東京の自宅に戻る前に地震が起きてもこれでしばらくは大丈夫。万が一の時は、てんでんこで逃げなさいね。」と。

 「てんでんこ」とは、「各々」とか「各自の責任」という意味であり、度重なる津波を経験している東北に伝承されてきた言葉である。震災の現場では、人助けによって自分の命を落とすこともある。そのような事態を避けるため、各自の責任で、まずは確実に自分の命を守ろうという昔の人の教えである。身近なものとして地震、津波と付き合ってきた東北の歴史がそこにあった。

(弁護士・西岡 毅)

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