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憲法問題対策センター

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第26回 「関東大震災百年に思う」(2023年9月号)

弁護士 桒原 周成(東京弁護士会憲法問題対策センター 市民・高校生部会部会長)
関東大震災百年に思う

1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生しました。東京府の地震の程度は、相模湾沿いの神奈川県と比べると幾分弱かったものの、家屋倒壊数は36,806戸に及びました。しかし、その被害は、その後発生した火災による被害とは比べものになりませんでした。

火災は9月1日正午から始まり、9月3日午前6時まで続き、東京市内では全戸数483,000戸中300,924戸が全焼となり、死者行方不明者は68,660人に達しました。交通・通信手段が断ち切られ、官公庁・新聞による震災情報が途絶する中で、流言飛語が広がっていきました。

流言は、「富士山大爆発、今なお噴火中」「東京湾に猛烈な海嘯襲来す」といった荒唐無稽なものもありましたが、朝鮮人の放火、爆弾所持、襲来といった朝鮮人を標的としたものが次々と発生しました。

9月3日には関東戒厳令司令官命令が発令されました。その実施目的は「不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」と挙げられており、発令のきっかけは、朝鮮人についての流言にあったと考えられます。その発令は、官憲・国民に対して、朝鮮人暴動に対する危機意識を過剰に持たせることになりました。

京成線八広駅そばの荒川の堤防の旧四ツ木橋付近は、多数の朝鮮人虐殺の現場で、かっての喜劇王「ばんじゅん」は、現場の目撃者の一人でした。虐殺の主役は、当初自警団員でしたが、途中から軍隊に変わりました。このような虐殺現場は、報告の挙がっているものだけでも千葉県船橋、法殿、埼玉県熊谷、本庄、群馬県藤岡、神奈川県新子安神奈川駅、神奈川鉄橋など関東一円70ヶ所以上に存在し、数千人に及ぶ朝鮮人が虐殺されてしまいました。

流言飛語は、何故このような大量虐殺まで引き起こしてしまったのでしょうか。その背景には、日本による韓国の支配・併合の歴史が深くかかわっていました。

日本は、韓国に対して、1894(明治27)年に起きた日清戦争前後から軍事力を行使し、1905(明治38)年の日露戦争勝利の年の第二次日韓協約の締結によって保護国化し、1910(明治43)年の日韓併合条約によって併合しました。この過程が平穏裏に進んだはずのないことは、誰しも容易に想像できます。1905(明治38)年~1914(大正3)まで続いた民衆の抵抗運動の義兵闘争では、義兵側の死者が17,779人であるのに対し、日本兵の死者は136名に過ぎず、死者数の圧倒的な非対称性が見られます。日本軍により、虐殺に近い形で韓国人が殺害されたことが疑われます。

日本国民、とりわけ自警団の中心メンバーとなった在郷軍人は、日韓併合に至る過程に兵士として参加しており、その過程が軍事力によって韓国国民の意思を圧殺して行われたことを体験で知っていました。ですから、朝鮮人を蔑視の対象としながらも、大災害に伴う混乱を利用して鬱積した憤りを日本人にたたきつける恐れがあると恐怖の対象にして、虐殺まで起こしてしまったと考えられます。

今、ウクライナ戦争で軍事力が行使され、台湾有事でその行使の恐れが語られています。朝鮮人虐殺は、国家による武力の行使の記憶がその後も深く国民の意識に沈潜して、国民を非人間的な行動に駆り立てた不都合な真実です。

憲法9条の下に生きる私たちは、軍事力・武力の行使が恐ろしい後遺症を引き起こした歴史にも、真摯に向かい合っていく必要があります。

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