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憲法問題対策センター

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第31回「古くて新しい憲法のはなし⑪」(2024年3月号)

弁護士 津田二郎(東京弁護士会憲法問題対策センター事務局長)
死刑制度と憲法

死刑は、「対象者(死刑囚)の生命を奪い去る刑罰」です。
 
世界を見渡せば、先進国では死刑制度を廃止・執行停止した国が圧倒的多数であり[1]、現在も死刑制度を維持し、毎年のように執行しているのは日本だけです。

憲法との関係では、死刑は憲法で絶対に禁止されている「残虐な刑罰」(第36条)に当たるのではないかと問題になったことがありますが、裁判所はその当時の時代と環境においては、刑罰としての死刑は「残虐な刑罰とはいえない」としています(最大判昭和23年6月30日、最大判昭和23年3月12日)。

しかし、人権感覚は時とともに変化し、かつては問題視されていなかったことでも、後に「人権侵害である」と捉えられるようになることはよくあることです。かつての職場における結婚退職制や早期定年制や職務、昇進昇格についての男女差別などはそのような例です。

「生きること」は本来、人間の根元的な欲求です。刑法で殺人罪が定められているのは、他者が、誰かを否定し、生きることを止めさせることは許されないと考えているからだと思います。そして私は、国が刑法で「誰も殺すな」と定めて殺人罪を定めているのに、その国自身が「死刑」を認めて、殺してしまっていい人を選別し実際に殺してしまうことは、筋が通らないことだと思うのです。「人権」の考え方は、元来国から一人一人の人間を守って大切にしようとするものですが、多数派が支配しがちな議会制民主主義においては多数派から少数派を守る機能があります。そして往々にして多数派から見ると、少数派は「変わった人」、「みんなと違う人」、「気味が悪い人」だったりします。そういう人であっても、多数決で否定してはならないというのが人権の考え方なのですから、国が「殺してしまっていい人」を選別し、殺してしまう死刑制度は、まさに多数派が少数派の命を奪い去り、その人を否定する制度だと言わざるを得ないのではないか、と思うのです。

一方、それでは殺人事件の被害者遺族の被害感情は収まらないのではないか、との指摘もあります。私は、犯罪被害者やその遺族の中に、その犯人を「殺したい」と思う人がいることやそう思うこと自体は否定されるはずもなく、全く正当なのだと思います。行動に移さず内心に留まる限り、どんな心情も絶対に尊重されなければなりません。私も家族や友人が殺されてしまったら、犯人を憎み、殺したいと思うでしょう。

ただ、このような犯罪被害者やその遺族がいたとしても、それだけでは死刑を正当化することはできないのではないでしょうか。例えばけがを負わされたり、大切な形見などを盗まれたりした場合でも、被害者が加害者に対して「殺意」を抱くことはありうるでしょう。しかし、そのような場合に成立する犯罪には死刑は規定されておらず、多くの方も「気持ちは分かるけれども、死刑まではやりすぎ」と思うのではないでしょうか。

私は、江戸時代には許されていた敵討(仇討ち)が否定され、現在では殺人事件の犯罪被害者遺族であっても犯人を殺してしまうことは許されないことを理解しているように、単純ではないとしても、犯人を殺したいと思う犯罪被害者やその遺族の方にも、死刑制度がないことについての理解が得られるときがくるのではないかと思うのです。

そのためには、死刑制度に代わる無期刑の創設も必要でしょう。また犯罪被害者やその遺族への補償制度の拡充も必要かもしれません。

一方で、例え代替策がなくとも、誰かが誰かを殺すことの不合理を正面から認め、国も誰かを殺すことは不合理だと考えるようになる日が来ないとは思わないのです。


[1] OECD加盟国の中で死刑制度を存置しているのは米国、韓国、日本だけ。米国は2021年時点で全米50州のうち23州と首都ワシントンが死刑を廃止、3州が執行を停止しており、韓国は死刑を事実上廃止しています。

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