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憲法問題対策センター

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第45回 権力を疑い、人を信じる-憲法からはじまる政治の授業(2025年10月号)

西田 美樹 (東京弁護士会憲法問題対策センター委員)
権力を疑い、人を信じる-憲法からはじまる政治の授業

外国にルーツを持つ大学生(日本国籍なので有権者)から「日本の政治体制を教えてほしい」と頼まれ、私は小さなワークショップを開いた。最初に伝えたのは、「政治とは人権を実現するための手段だ」ということだった。政治の話は、憲法の話を抜きにはできない。なぜなら、憲法こそがこの国が何を大切にし、どんな社会を目指しているかを定めた設計図だからだ。

日本国憲法には三つの柱がある。国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義。どれも戦争と抑圧の時代を二度と繰り返さないために選ばれた道だ。人権の章を読むと、単なる理想ではなく、過去への反省が刻まれていることがわかる。魔女狩りでは「異端」が命を奪われ、特高警察の時代には思想や信仰を理由に人が逮捕された。笠置シヅ子という歌手が「ダンスはけしからん」と政府に踊る自由を奪われたこともあった。国家が人の心や表現を支配しようとした時代を経て、憲法は人が「自分の生き方を選べる自由」を守る盾として作られたのだ。

そこから政治の仕組みの話に移った。
国民主権とは、多数決で勝った者が何をしてもよいという意味ではない。むしろ、少数者の人権を守るためにこそ国民が主権者である。自分の人生の主人公は自分自身だから、この国のあり方も一人ひとりが主人公として決める。それが選挙であり、政治参加の意味だ。その意志をどうやって制度にしているのか----立法・行政・司法という三つの権力が互いに監視し合う「三権分立」、衆議院と参議院という二つの議会がチェックし合う「二院制」。こうした仕組みは、暴走する権力を抑えるためにある。

すると学生の一人が、鋭い質問を投げかけた。「どうして日本は大統領制を取らないの?」
私は少し考えてから答えた。「たぶんこの国の憲法は、権力というものを徹底的に疑っているんだと思う。国民から直接選ばれた大統領という存在が、あまりに強い権限を持つことを恐れたのかもしれないね」。言いながら、自分でも腑に落ちた気がした。戦前の日本は、権力をひとつに集中させて暴走した。その反省から、戦後の憲法は「分けて、縛って、疑う」構造を選んだのだ。疑うことは悪ではない。
信頼を長く保つための知恵だ。

1時間ほど語り合ったあと、学生が感想を言った。「すごくよくわかった。日本で生まれ育った人は、こういうことを学校で教わるの?」その一言に、胸がざわついた。私たちの教育現場では、「政治的中立」という言葉のもと、政治を語ること自体がタブー視されている。だが本来の中立とは、何も言わないことではない。どんな立場の人の権利も守るために、判断の基準となる知識をすべての人に与えることだ。政治を知らなければ、主権者として考える力を奪われてしまう。

学生たちにとって、今日の1時間が初めて「自分がこの国を動かす一員なんだ」と感じる時間だったのなら、それだけで価値がある。どこで教わるのか----その問いに私は答えた。「きっと、私たち弁護士の出番がここにあるんだよ」。法廷だけでなく、市民の中で憲法を語る。それこそが憲法の精神を生かす行動だ。権力を疑い、人を信じる。そうした知恵を社会に循環させていくことが、次の時代の「政治教育」なのだと思う。

この国の政治は、遠い誰かのものではない。私たち一人ひとりが、その物語の登場人物であり、同時に脚本家でもある。

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