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第43回 靖国違憲訴訟弁護団としての思い(2025年9月号)
西田 美樹 (東京弁護士会憲法問題対策センター委員)
靖国違憲訴訟弁護団としての思い
今年も8月15日が終わった。閣僚として参拝した者、超党派で靖国神社に参拝した国会議員、自由民主党総裁として玉串料を納めた人、さまざまな行動が見られました。
私は、小泉・安倍内閣総理大臣(当時)の靖国神社参拝違憲訴訟の弁護団として裁判に関わってきました。今回の参拝にあたり、もう1度私たちが裁判で伝えたかったことをまとめたいと思います。
私たちが一貫して訴えてきたのは、「靖国神社とは何か」、その本質を直視することの必要性です。
ところが、裁判所の判決では、靖国神社が果たしてきた歴史的役割――つまり、日本の帝国主義や侵略戦争とどのように結びついてきたのか――そうした認定事実に一切触れられていませんでした。
靖国神社は、明治以降の天皇制国家において、戦争を支える精神的な装置として機能してきました。「死んだら靖国で会おう」という言葉が示すように、兵士たちは国家のために命を捧げることを美化され、その死後は靖国に合祀される。この合祀にも、厚生省が戦没者の名簿を提供するという形で、国が深く関与しています。
私たちは靖国神社を、単なる宗教施設とは考えていません。むしろ「戦争神社」「侵略神社」と呼ぶべき存在だと認識しています。また、「鎮霊社」という施設の存在も見逃せません。ここには本殿とは別に、戦争に関わったすべての国々の戦没者が祀られているとされています。つまり、敵味方を問わず、戦争に加担した人も、させられた人も、一括して祀っている。その結果、ヒトラーもムッソリーニも一緒に祀られているという構図になりかねない。これはまさに、戦争責任を曖昧にし、戦争そのものを賛美する究極の装置です。
このような靖国参拝を政治家が行い、マスコミが大きく取り上げる。私たち原告の中には、その報道に接することでPTSD的な症状を引き起こす人もいます。それほどの精神的苦痛がある。けれども、裁判所は「他人がどの神社に参拝しようが、基本的に信仰の自由の範囲内であり、他人に不快感を与えるようなものではない」という理屈で、私たちの訴えを切り捨てました。
損害が目に見えない「精神的苦痛」であることを理由に、訴えそのものを門前払いにする。そのような判決は、「そもそもその行為は違憲なのか合憲なのか」という根本的な問題――つまり憲法判断そのもの――に一切踏み込んでいません。これは、違憲審査権を有する司法が、本来果たすべき責任から逃げているということです。
政治家が戦争神社に参拝するという行為が、政教分離原則に照らして憲法上許されるのかどうか。そこを問うために訴訟を起こしたのに、裁判所は「損害がないから判断しない」とだけ言って、核心に触れようとしません。私たちから見れば、それは司法の怠慢であり、憲法判断からの逃避です。
さらに、靖国神社参拝という行為は明らかな宗教行為であるにもかかわらず、その点もまた政治的に曖昧にされています。たとえば、安倍元首相は靖国参拝後、「英霊に哀悼の意と尊崇の念を捧げた。御霊安らかなれと祈った」と述べました。これは、戦没者を神格化し、超自然的な存在としてその魂を祀るという、極めて明確な宗教行為です。
そして、私たちが最も訴えたかったのは「平和的生存権」の侵害です。憲法に明記された基本的人権を、具体的な状況に照らして主張しているのです。ところが、裁判所は「抽象的な権利にすぎない」として、その議論に正面から向き合いませんでした。
靖国神社参拝は、単なる過去の歴史の問題ではありません。現在の国際情勢にも影響しうる行為です。場合によっては、外交的摩擦や軍事的緊張の引き金になりうる。私たちはその危険性にも警鐘を鳴らしてきました。
それにもかかわらず、裁判所はこれらのまっとうな憲法論に一顧だにしない。まるで権力者に忖度しているかのような姿勢です。これは、憲法99条に定められた「憲法尊重擁護義務」に反する行為であると、私たちは考えています。
司法がその使命を放棄してしまえば、憲法の理念は絵に描いた餅になります。だからこそ、私たちは諦めずに声を上げ続けています。