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憲法問題対策センター

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第53回 1月5日に伊勢神宮を参拝した高市総理大臣の問題は(2026年2月号)

弁護士 堀井準(憲法問題対策センター委員)

2026年1月5日、高市総理大臣は伊勢神宮内宮に参拝しました。この参拝が憲法20条3項に定める政教分離に反するかどうかが問題となります。

国家と特定宗教とが結びつくときに異教徒や無宗教者に迫害が生じることは歴史の示すところであり、信教の自由の保障は同時に国家の非宗教性かつ宗教的中立を要請します(浦部法穂「全訂憲法学教室134頁」参照)。

我が国では旧憲法下で国家神道が国民に強制されました。神社は宗教ではない、と言われ、神社に参拝することは「臣民タルノ義務」(旧憲法では臣民タル義務、に反しない限りにおいて信教の自由が保障されていました)とされていたのです。神社、神官には公法上の地位と官吏の地位が与えられていました。

国家神道の中心(本宗)は伊勢神宮でしたし、今でも伊勢神宮は神社神宮の本宗とされています(宗教法人神社本庁による)。諸説ありますが、純然たる神話を除けば、7世紀終わりころ、藤原不比等が天皇家の祖神として現在の内宮に天照大神を遷宮したというのが有力な考え方です。天孫降臨を天皇制の根拠としている日本書紀はその後に編纂されたと考えられています。天武帝以降の天皇制確立を当初から大きく支えてきたのが伊勢神宮と言えます。伊勢神宮参拝の問題を考えるにあたり旧憲法下で強制された国家神道への参拝や神社の公的地位、なかでも国家神道の中心とされていた伊勢神宮の地位・歴史を無視することはできません。

国家機関である内閣総理大臣の参拝が政教分離に反するか否かを判断するにあたって最高裁判所が基準としているのが、「目的効果基準」です。これは、その行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助・助長・促進または圧迫・干渉等になるかどうか、によって判断すべきとする考え方です(最大判昭和52・7・13民集31-4-533津地鎮祭事件、最大判平成9・4・2民集51-4-1673愛媛玉串料事件等)。

高市総理大臣は「国家国民の安寧と皇室の弥栄をお祈り致しました」とXへ投稿しています。参拝の目的は「世俗的」と評価できる余地がありますが、「参拝」という宗教的行為によって、国家神道の中心神という特定宗教の教義への帰依と国家神道の正当性を誇示し、国家神道との過度の関わり合いを促しています。参拝が歴代の内閣総理大臣によって行われたことにより伊勢神宮に援助・助長・促進の効果をもたらせてきたことも否定できないでしょう。参拝は「目的効果基準」によっても政教分離に反し違憲であると言わざるを得ません(芦部信喜憲法5版158~163頁参照、ここで引用されている福岡高判平成4・2・28判時1426-85、大阪高判平成4・7・30判時1434-38、アメリカのエンドーストメントテスト参照)。

なお、目的効果基準については、問題となる行為の「目的」が世俗的であれば政教分離に反しない、という基準の立て方自体が問題だという指摘があります。もともと政教分離は政治権力と宗教の結合を否定するものである以上、政治上の目的のために政治が宗教を使うことは目的効果基準以前のこととして政教分離に反するという見解や(樋口陽一「憲法」217頁)、論理的には世俗的目的を示してどんなに宗教的性格の強い国の行為でも基準をパスさせる可能性を認めることになるが、それは政教分離規定がまさに禁止しようとしたこと(宗教を利用した政治目的の実現)を許容することになる(今関源成「法学教室」247-19頁)、という見解などです。これらの目的効果基準を否定する考え方からは、内閣総理大臣が「国民の安寧と皇室の繁栄」を内閣総理大臣として祈願する、という政治目的のために伊勢神宮という特定宗教を利用すること自体が政教分離に反するということになります。

政教分離に関しては、制度的保障か人権か、など他の論点もあり、これは国民が司法判断を求める上において問題となります。いずれまた考え方を紹介しましょう。

いずれにしても内閣総理大臣の伊勢神宮参拝は、靖国神社への参拝と同様に、国家神道を強制された過去への反省に基づいて制定された政教分離への脅威となりうる重大な問題なのです。

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